「祝祭芸術こぼれ話」開始の辞
加藤種男
拙著『祝祭芸術-再生と創造のアートプロジェクト』には、いくらか反響もあり、時に質問を頂くこともあります。それで、祝祭芸術について、改めてお話ししたり、新たな事例なども付け加えたくなったりする機会もできました。それらの話や、新たに浮かんできたことや、書き漏らしたことなどを、少し書き連ねておこうとするのが、本シリーズです。名付けて「祝祭芸術こぼれ話」とします。
その第1回目は、先日八戸市のお招きで、ポータルミュージアム「はっち」で開催された「八戸アートフォーラム」で「本と種、そして酔っ払いに愛を」と題した講演に、大幅に加筆訂正したものです。八戸市の関係者のみなさま、当日足を運んでいただいたみなさまに、あらためてお礼申し上げます。
「本と種、そして酔っ払いに愛を」
加藤種男
久しぶりにわが愛する八戸でお話をする貴重な機会を頂き、まことにありがとうございます。
この会場「はっち」に参ります前に、建築家の高砂充希子さんがリノベーションされた「neo一平」の1階のギャラリーを先ほど拝見してきました。
八戸の広報官ともいうべき柳沢拓哉さんのFBでの紹介で知りました。その説明によると、朔日町にギャラリー・アトリエ・レジデンスを併設した拠点「neo一平」です。
小さなスペースですが、ある意味で現在の八戸の文化のありようを象徴する画期的な場が出来ています。高砂充希子さんについては、別の八戸市民からも資料とコメントを送ってこられて、注目していました。何が画期的かというと、八戸出身の建築家が東京などに拠点を置いて活躍するのではなく、八戸を拠点に米国などの仕事もリモートでこなしているという点ですね。つまりは、従来のイメージでは、辺境八戸からも東京や世界で活躍する人が出ているという感じだったかもしれませんが、そうではなく、八戸を拠点に活動できるというビジョンを打ち出しておられます。八戸こそが世界の中心にあるのだというビジョンの打ち出し方が、画期的なのですね。しかも、それが市民の支持を得られる時代が来たことも素晴らしいですね。
本日は、八戸こそがかけがいのない世界にたった一つの町であり、世界の中心の一つであり、そして、こうした八戸の地位は、ほかならぬ八戸市民の多様な創意の総意に基づくということも、お話をさせていただきます。
1. 鮫の神楽を拝見
まずは、この会場「はっち」のできる前の話から始めたいと思います。東日本大震災で大きく被災する前の第一魚市場で、2008年にJCDN(1)という現代ダンスの中間支援団体が「踊りに行くぜ!!」というプログラムを開催したことがありました。その休憩時間に「鮫神楽」が奉納されました。これは、同じ時期に魚市場で開催されていた食のお祭りの出し物だったように記憶していますが、神楽と現代ダンスという二つの全く違う舞踊が同じ場所で演じられ、結果としての緩やかな交流となりました。
地元鮫町に伝わる鮫神楽は様々な演目があるようですが、お盆に、魚市場よりは高台にある浮木寺(ふぼくじ)の墓地で演じられる墓獅子(はかじし)という珍しいものがあり、明らかに神仏習合の名残をとどめているものですね。
古いものは神仏習合の色彩を残している場合が普通ですが、豊かな文化を盛り込めるだけ盛り込んだのが神仏習合でした。それを明治維新政府は神仏分離という名目で、薄っぺらな文化へと引きはがしてしまった。
もう一つ、興味深いことがあります。東日本大震災の時に、神社や仏閣は津波の被災が比較的少なかったという共通点がありました。それは、神社仏閣が集落の中では高台に位置している場合が多かったからです。鮫神楽の浮木寺も鮫の港を見下ろす海抜20メートル以上の高台にあります。共同体の信仰の拠点は、津波の来ない高台に大切に置かれたのでした。
このように、郷土芸能の舞台となった神社や仏閣の地勢的な位置や、背景の歴史を確認することは、つまりは古い文化の確認は、防災を含めた今日の生活上にも重要でしょう。
魚市場では、お墓の模型を作成して、その墓前で獅子舞などが奉納されました。地元八戸の若手ダンサーたちのグループも出演した「踊りに行くぜ!!」というプログラムと、鮫神楽が同じ場所で演じられました。現代のダンスを振興する団体と、伝統的な神楽の共演とまではいかないが、交流の片鱗は実現したのです。
八戸は、泉紫峰さん、泉彩菜さんなどを中心に日本舞踊の盛んな地でもあり、同時に、もともとダンスの盛んな土地で、したがって、現代ダンスの公演もあまり違和感なく受け入れられたように思います。当時、地元出身の磯島未来さんも、確か「ピンク」というグループで踊りましたね。
八戸では、新旧の出会いが実現しています。こうした新旧の出会いが、八戸の文化芸術のありようを象徴しているのではないでしょうか。古いものと新しいものの交流が八戸ではみられます。冒頭に紹介した「neo一平」も、空き家となった古い店舗を改修して、現代の美術家の作品を展示することによって、ある意味で新旧の交流を実現しているでしょう。
古いものは、その時代の人の生活に根付いたものでしたから、今日の人の営みから光を当てなおし、また現在の新たな表現活動も、突然に生まれたものではなく、昔の多くの要素を使って、いわば再編集によって生まれてきているのでしょう。そのように新旧の文化の交流と対比の中から、それぞれの価値が明らかになり、創造に寄与するのですね。
しかも、これが民の力によって実現している点も重要です。市民の手によるアートプロジェクトが、どれほど盛んかが、これからの地域の活力を計る物差しになるのではないでしょうか。
2. 伝承されてきた郷土芸能
八戸には、鮫神楽とともに、私が今さら説明するまでもなく、優れた祭りや神楽がいくつもありますね。
その代表的なものは、三社大祭(2)、えんぶり(3)、さらには、新羅神社の騎馬打球という珍しいものもあります。
騎馬打球は、ポロそのものですね。新羅神社(4)に参りますと、周りから少し掘り下げた馬場があり、掲げられた的に向かって騎馬の競技者たちが、争いながら玉を追っていきます。熱中してくると、騎馬が見物のいる高台まで駆け上って来るほどで、大変迫力があります。昔は全国各地に馬がいたのでしょうが、殊に南部は優れた馬の産地で、八戸の周辺には南部九牧がありました。さらに、例えば、下北半島の現在の六ケ所村にあたる尾駮(おぶち)沼の周辺にも、古代によく知られた尾駮の牧があったらしく、菅江真澄(5)なども道中で、このあたりかと尋ねています。そうした背景があって、騎馬打球がこの地に残ったものでしょうか。
この騎馬打球にヒントを得て、「はっち流騎馬打球」と称してロボコンと組み合わせたアートプロジェクトが、2013年に「はっち」で開催されています。これも新旧の出会いの事例です。
「えんぶり」は、長者山新羅神社に奉納した後、市中各地で演じられますが、門付けが重要な要素ですね。門付け、つまり一軒一軒の家を巡ることは、郷土芸能が地域共同体の信仰とともに生きてきたことを示しておりますね。これがしかし、明治維新政府から目の敵にされ、新政府に連なるの県の役人から「物乞に似たる」として禁じられたのを、地元の努力で今日見られるように復活を遂げました。凍てつく八戸で、子どもたちの神楽とともに、継承されています。
明治維新政府の文化破壊政策は凄まじいものがあり、人々の信仰、風俗、言語にまで及び、人々の心まで支配しようとしました。特に、旧幕藩体制に最後まで与した「奥羽越列藩同盟」に拠った地域の民俗への介入は、ほとんど報復に似たものでした。八戸藩は処罰を免れてはいますが、民俗への介入は免れえなかったですね。
それでも、祝祭芸術を求める心は生き続け、「えんぶり」は継承され、三社大祭も今日の隆盛に至っています。
八太郎えんぶり組の練習を拝見したことがあります。公民館に中学生が多数練習に参加しており、あわせて50人余りの老若が集まっておられました。囃子方の歌がすばらしく、また、三歳くらいの子どもが実に見事に踊っているのに感動しました。その中で、八十を超えた高橋常男さんが柔らかい踊りを披露されつつ、指導にも当たっておられました。高橋さんは、こんな風に教えておられました。
ただ「めでたいな」というだけでは目出度さは伝わらないんだな、
ああ、めでたいな、
ああ、めでたいな、
最後の「な」を強調して、振りの手もここをこうして・・・
と、「な」にアクセントをつけて、振りもここを強調するのだと教えておられました。それで、子どもたちの踊りがガラッと変わるのですね。まさに伝承の現場に立ち会った思いがしました。
ちなみに申し上げますと、新潟でアート・ミックス・ジャパンという和文化の祭典が毎年開催されています。これは、以前「はっち」で行っていた「和日カフェ」とも似た試みですが、その今年のプログラムに「えんぶり」が入っていて、「青森県八戸地方で約800年続く、春を告げる色鮮やかな民俗芸能」と紹介されていました。大久保えんぶり組が、新潟県の村上市大津集落の「大津獅子踊」とともに披露されていました。「えんぶり」は今や全国的に注目されています。
鮫神楽もそうですが、郷土芸能は伝承が大きな課題です。折角子どもたちが関心を持ち、受け継ごうと思っても、地元に大学がない場合、高校卒業とともに都会に出て行ってしまって、伝承が途絶えてしまう場合が少なくないのですね。八戸には大学があるので、鮫神楽の場合は、関心を持った青年が地元の大学に進学し地元で就職して、神楽を受け継いでいるとお聞きしました。昔は演じたが、今では高齢となり演じることのできない、アクロバティックな出し物も、お年寄りが若者に手取り足取り説明して、伝承して復活したものがある、と聞いております。
これを、伝える側からいいますと、郷土芸能は、高齢者が孫の世代を教えて、孫の世代と直接交流できる絶好の機会でもありますね。つまりは、高齢者が自分の得意技を次世代次々世代に伝えることのできる、今日では数少ない機会です。その意味で、郷土芸能は、超高齢社会にとって大きな可能性を示しているともいえるでしょう。
ここには、高齢社会の課題解決のヒントがあります。すべての高齢者が郷土芸能などの伝承者ではありませんが、しかし、高齢者にも、高齢者ならではの表現活動の可能性があり、高齢者が表現活動を続けることが、高齢社会の様々な課題解決の第一歩です。それが郷土芸能の伝承活動から見えてくる可能性です。
いくつかのシステム上の工夫がいるでしょう。高齢者の表現活動を介護の中に組み入れることが必要ですし、場合によっては、高齢者が一方で介護を受けながらも、社会的な活動を営むという仕組みも検討する必要があるでしょう。
子どもは教わることに躊躇しない、むしろ貪欲ですし、一方、高齢者は教えることに躊躇しない、むしろ貪欲ですね。これを組み合わせることで成り立っているのが郷土芸能の伝承でしょう。
いわゆる伝統芸能、郷土芸能は、「昔からこうだった」だけではなく、時代の要請により形を変えてきました。もちろん古くから伝承されてきた変わらない根幹があり、その上に変わった部分が加わってきたのです。そうした様々な人々の思いと働きの集まったものが文化と呼ばれているのでしょう。
それは三社大祭でも同様ですね。もともとは神輿の渡御を中心にした催事だったのでしょう。その神輿の行列の後に、次々とあちらの町、こちらの村の人々が、山車を仕立てて付き従う、つまり「付け祭」がどんどん発展して、今日のような大行列になったものでしょう。行列の参加者の数を実際にカウントしてみますと、五千人にも及びます。子どもたちのお囃子や、踊りも含めて、実に多数の出演者がいます。その他にも山車の制作をはじめとして、衣装、食事の用意、踊りやお囃子の稽古に携わる人などすべての当事者を含めると、1万人くらいに上るかもしれませんね。当事者が多数、というのが祭りの特色です。今日では、見物人も大勢集まってきますが、本来祭りは、神様だけが見物人で、祭りの参加者は、みな祭りの作り手でした。一般の見物人は偶然通りかかった人を除けばほとんどいなかったのです。つまりは、みんなが作り手であり、みんなで楽しむものが祭りでした。現代の文化芸術でも、この構造をこそ再構築したいものです。
一般に現代のアートプロジェクトと呼ばれている活動が、幾分かは祭りに近づいてきているのは、全ての人が作り手であり、同時にプロジェクトを楽しむ、という構造を取り戻しつつあるからです。
そういう意味で、三社大祭は、当然にも現代のアーティスト、表現者の関心を引き付けます。「はっち」で展開された「DASHIJIN」(だしじん)というプロジェクトがありましたが、そのホームページによると、「八戸三社大祭をめぐる人と人とのつながりや独自の造形美を市民自らが見つめ直し、八戸市民が世代や立場を超えて、ユニークな造形とコミュニケーションを楽しむ市民プロジェクト」だとされています。
3. 最先端の芸術文化活動
このように古くから伝承されてきた郷土芸能や祭りが多彩であるだけではなく、八戸は、他方では実は先駆的かつ実験的な芸術を数多く試みてきた町でもあります。
私が八戸のそうした活動と偶然出会った最初は、豊島重之(6)さんが率いるモレキュラー・シアターの公演でした。豊島重之さんは八戸で医師としての仕事をしながら、劇団を率いて世界を巡ってもおられました。その活動を、東京の錦糸町西武の中にあったスタジオ錦糸町という小さなホールで拝見したのです。あまりにも抽象概念の集積で、正直申し上げて、さっぱり意味がわかりませんでした。絶対演劇祭というフェスティバルで、三つの劇団が参加しておりました。1992年のことです。
私は、1990年から企業による文化活動、つまり、企業メセナの担当になり、演劇、音楽、舞踊、美術などの、いろいろなジャンルの若手芸術家の活動を片っ端から見て歩いておりました。特に、実験的で先駆的な活動に重点を置いて見て回りました。というのも、企業メセナ活動を始めてみますと、実に様々な分野の様々な活動から支援の要請が参ります。予算に限りがあり、そのすべてを応援することはできないので、支援すべき活動の基準が必要となります。基準を作って、専門家の意見を聞いて選択してまいりますが、何も知らないままでは、専門家の意見を判断することもできません。そこで、馴染みのなかった分野を中心に、できるだけ芸術文化の現場に足を運び、勉強する必要があったのです。
そうした勉強の過程で、CUATRO GATOSという劇団を主宰していた清水唯史さんという若手演劇人から、「絶対演劇祭」の案内状をもらったので、出かけて行ったのです。そこで、豊島重之さんのモレキュラー・シアターを見たのでした。豊島さんは、私よりもわずかに先輩でしたから、当時でも若手とはいえなかったかもしれませんが、前衛であったことは間違いないでしょう。
こうして、訳も分からないままに、私は、八戸に来る前に、八戸の最先端の文化に触れていたことになります。
さらに、八戸で興味深いのは、これはこの後に登場される吉川由美さんに教わって知ったのですが、青南病院における患者さんによる表現活動で、今日のいわゆるアール・ブリュットの先駆的な事例ですね。
治療の一環として作業療法を取り入れる病院はありましたが、青南病院では、さらに造形芸術を取り入れました。病棟の外で開放的な作業療法を行うことによって、治癒を促しつつ、その後の社会復帰を実現させるというのが、当時の千葉元院長の信念であり、方針でした。農業などの作業療法だけではなく、陶芸や彫刻による芸術療法が行われ、時には石井満隆や豊島和子ら舞踏家の協力によりダンスも取り入れたといいます。
その活動については、『砂丘への足跡』(7)という報告書が出ております。報告書には、羽永光利が撮影した多数の写真が掲載されており、患者さんたちによる造形物として、膨大な数の仏像や壺などの陶芸、絵馬や版画などが見られます。
報告書にある当時の千葉元院長の考えでは、「患者さんが復帰する社会が、現実に存在する地区社会である限り精神病院の中には、全ての地区社会の要素が美しく縮図されて存在して居らねばならぬ」ということであり、まさに、「存在しなければならない意味を持った精神病院」を構想されたことがよくわかります。
病院の設立が1959年とありますから、おそらく1960年代には芸術療法が取り入れられたのでしょう。そして、石井満隆が青南病院で踊ったのが、1981年から1983年と年譜にあるので、いずれにしてもきわめて先駆的です。
羽永光利の「撮影覚え書」によると、千葉元は「ウチは山下清は作らない」とも、「ひとりの天才を作ることで他の患者さんを犠牲にすることはできない」といっておられたとのこと。あくまで治療の一環として、この芸術療法を位置付けていたことがわかります。
このことは一方で、日本のアール・ブリュットを海外に送り出し紹介することに尽力した、パトリック・ギゲール(8)の言葉を裏書きすることになるかもしれません。ギゲールは、フランスではアール・ブリュットをあくまで芸術活動として評価しているのに対して、日本のアール・ブリュットは福祉の側面が強いといっています。
つまりは、特別の芸術家を生み出すことは、ほかのすべての人の表現活動にとっては、必ずしもプラスにならないと、千葉先生は考えられたのでしょう。しかし、一方で、全ての人が芸術家になる可能性もあると、考えることもできたはずですね。近現代の芸術観では、芸術家は特別の人でしたが、私たちが提唱している「祝祭芸術」においては、全ての人が芸術家となる可能性があると考えており、芸術家は特別の存在ではありません。
もちろん、千葉先生のような先駆的な活動がいくつもあったからこそ、私たちはこのことに気づいたともいえるのです。八戸は、そういう意味で様々な先駆的な表現活動の実験の場でもありました。
先日、コルビジェのもとで直接仕事をした吉坂隆正という建築家の本を読んでいて、八戸が出てきたのにも驚きました。吉坂隆正は八戸で「高屋敷農村公園」というのを設計しているのですね。いくつかの建築的構造物が、今でも残っているそうです。
こうした先駆的な実験それ自体は、必ずしもすべてにおいて、その直接の後継者を生まなかったように見えるかもしれませんが、そうした土壌があることで、今日の八戸の創造活動が成り立っているのは間違いないことでしょう。「はっち」も、八戸ブックセンターもリニューアルした八戸市美術館も、さらには2011年、「はっち」のオープニングに「八戸のうわさ」というプロジェクトで登場したアーティスト山本耕一郎さんの「まちぐみ」や、冒頭で紹介した「neo一平」に代表される、町中で展開するアートプロジェクトは、すべてこういう土壌の上に開花しているのです。
4. つまりは、種まきが重要で
このように、八戸は文化の観点から見た場合、時代とともに少しずつは形を変えながらも、郷土芸能、祭り、古典芸能など、古くから伝承されてきた文化の基盤があります。同時に、モレキュラー・シアターや、青南病院での表現活動など、全国的に見ても、世界的に見ても、先駆的で実験的な活動がいくつもありました。
つまり、いくつも種がまかれてきました。その種が、「はっち」や「マチニワ」、八戸ブックセンター、そしてリニューアルした八戸市美術館などに開花してきています。そうして、さらに重要なのは、それぞれは小さな活動かもしれませんが、まちぐみ、南郷アートプロジェクト、八戸工場大学、「neo一平」などなどの無数の市民アートプロジェクトの展開へとつながってきています。どこまで広がっているのか、その全貌はよくわからないほどです。
蒔いた種が開花して、百花繚乱どころか、650種を超える草花が咲き乱れる種崎海岸のような状況を呈しているのですね。見事な海岸段丘である種差海岸は、この名前に「種」が入っているのが象徴的ですね。その名前の由来は、いくつかの説があるようですが、「長い岬」を意味するアイヌ語の「タンネエサシ」から来ているというのが有力なようですから、必ずしも「種」を意味しませんが、やはり重要なのは種まきです。
続いている活動だけではなく、消えてしまった活動も、土に撒かれた種のように、あたかもそれ自体は土と同化して消えてしまったように見えるけれども、そこから芽が出て、創造が開花しているのです。
5. 本の町
先日福井県の敦賀に参りましたところ、駅前に不思議な本屋が出現しているのに、驚きました。誰が買うんだろうと思うような大型で分厚い本が多数並んでいるのですね。分類の仕方も、どこかで見たことがあるような。そうだ、八戸ブックセンターの再現だ、と思いました。八戸ブックセンターには、拙著『祝祭芸術』も『芸術文化の投資効果』も置いていただいているそうですが(多分今だけ?)、敦賀の本屋には、知人の本はいろいろ並んでいるのに私の本が見当たらないのは残念でしたが、でも、よく似ています。
二巻で、厚さ10センチ以上もある古井戸秀夫『評伝鶴屋南北』なんて本もあります。敦賀で鶴屋南北、などとダジャレを考えている場合ではないのですが、聞けば公設だというのです。これはあきらかに、八戸ブックセンターがあったから誕生しえた本屋ですね。
先ほどから八戸の古くから伝承されてきた文化を現代の新たな表現と結びつける話をしてまいりましたが、この戦略は、実に鶴屋南北がとった方法でもあります。
今日の私どもは歌舞伎というと、古典演劇の再現だと考えてしまいますが、『四谷怪談』で有名な南北の時代の歌舞伎は、創造性の高い現代演劇でした。だから毎年のように新作を生み出す必要がありました。そして、南北は生涯に百数十種の台本を書きました。だとすると、江戸の歌舞伎というものは、今日いうところのレパートリーシアターでもありました。南北の全盛期は半世紀にも及びますが、それだけ長く最先端で活躍できた秘訣のひとつは、古井戸先生によると、鶴屋南北が、「昔の芝居をよく覚えていて、巧みに利用した」からだというのです。
過去を活用しながら未来を創造したのです。われわれも同じことをすればいいのです。そして実に八戸はこのことを実践しているのですね。
八戸には、かくして公設の驚くべき画期的な書店ができていて、今や全国のモデルにもなりつつあるのです。人々が本を読まなくなったといわれますが、しかし、それは文化戦略次第で変えられることを、八戸ブックセンターや敦賀の「ちえなみき」が示しています。
読書文化のことで付け加えますと、八戸市には、かつて「遊歩堂」という地域の関係資料もそろえていた古本屋さんがありましたが、残念ながら数年前に閉店してしまいました。しかし、これだけの下地のある町ですから、いずれまた個性的な古本屋も誕生するでしょう。いや、もうすでに誕生しているのかもしれませんね。
6. はっちのできるまで
2008年に魚市場で、鮫神楽と現代ダンスの公演を見るまで、ほとんど縁のなかった八戸とは、その翌年から急速に縁が深まりました。2009年3月30日に、私は八戸に呼び出されたのです。この日、中心市街地活性化のための新施設建設に向けた委員会が開催されるので、それを傍聴して、意見交換をするべし、という趣旨でした。
実は、当時の私は、横浜市芸術文化振興財団の仕事を兼務で手伝っており、文化芸術創造都市横浜の旗振り役の一人でもありましたので、おそらく八戸市の文化芸術による中心市街地活性化構想にとって、私の経験なども参考になるかもしれないということだったのでしょう。
八戸市の委員会の中心人物であった、塚原隆市(つかはら・たかし)氏にもお目に掛かりお話を伺ったのを記憶しています。塚原さんのことは、私よりも、みなさまの方がよくご存じのことと思いますが、残念ながら先ごろ急逝されました。都市創造の傑出した企画推進者でした。
さて、そうした要請を受けて、新施設について関係者といろいろと意見交換しました。最初の構想では、三社大祭の山車博物館にするという計画もありましたが、これは、まったく空疎な提案と思いました。というのは、祭りというのは特別の場であって、山車は祭りの中でこそ重要な役割を果たしますが、祭りを離れては、魂が抜けた張りぼてに過ぎないのです。だから、見本として一つぐらい展示することはありえても、山車博物館では、魂の抜け殻の「後の祭り」に過ぎないと申し上げ、結局この構想はなくなりましたね。
逆に取り上げていただいたのは、地場のものづくりの重要性で、地域経済を考えた時、外部資本による東京モデルの導入ではなく、大小を問わず地場の産業を重視すべきだと考えておりました。それで、地場産業の紹介やモノづくりスタジオなどが設置されました。
さらに、二つの機能を持たせたい、と申し上げました。一つは、文化、歴史、観光、産業など、八戸を総合的に紹介して、あくまで、この場は八戸の入り口であって、ここで概要をご覧いただいた上で、実際に八戸の市中に出かけて行って、八戸の自然、歴史、文化、そして食に至るまで、八戸を味わい尽くしていただく場にしたいということでした。まさに、ポータルミュージアムのコンセプトですね。
もう一点は、ぜひとも創造機能を持つべきだということでした。一般に行政がつくる施設というのは、そこで展示したり、公演を見ていただいたり、つまり、専門家の成果を市民に鑑賞してもらうという点を重視されています。しかし、あくまで主人公は市民なのであって、市民の主体的な活動の場になる必要があることを強調しました。したがって、市民との協働プロジェクトを推進できるアーティストやクリエーターが創造できる空間が欲しいと思いました。それで、アーティスト・イン・レジデンスのためのスタジオを設置して頂きました。
運営についても、市の直営案に対して、市民主体の運営を提案しました。NPOないし、公益性の高い民間団体による運営が望ましいと考えましたが、これは残念ながら実現しませんでした。
それでは、せめて館長だけでも民間の専門家に委嘱するべきと提案しましたが、行政のガードは固く、これも実現しませんでした。
それでも、「はっち」のように、これだけ高い総合性を備えた拠点は、他に例がなく、まさに都市創造の重要な拠点として位置づけられたのではないでしょうか。
こうして、私自身、鮫神楽にも出会ってから15、6年になるでしょうか。八戸に深い縁ができてからは毎年何度も伺うようになりました。
そうして、「はっち」が2011年2月11日に誕生しました。オープンの日には、前の道路で「えんぶり」やダンスの披露があり、人がひしめき、夕方5時の開館と同時に、雪崩を打って大勢の市民が中に入ってこられ、事故がなかったのが奇跡と思えるくらい、賑わいを見せました。
その丁度1か月後に東日本大震災でした。それでも「はっち」があったお陰で、しばらく避難所として機能しましたね。
7. 酔っ払いの妄想を形にする
「酔っ払いに愛を!」という八戸ならではの名前のプロジェクトが始められたのは、「はっち」開館に先立つ2009年の夏で、三社大祭の開催に合わせたのですね。これは今でも続いていて、今年の案内に、「ダンスあり、芝居あり、笑いあり。夜の横丁劇場をお楽しみください。」とあるように、始まった当初から、何といっても「横丁の町」八戸で、多様なアート活動を町中展開するプロジェクトでした。ハード優先になりがちな文化政策を、ソフト優先で推進する試みでもあり、だから、中心市街地活性化施設の建設に先駆けて開始されたのでした。
最初の年は、街角や店舗のあちこちに掲げられた「ヨコヲちゃんを探せ!」と題されたアート作品を探しながら街歩きをしました。店舗のウインドウなどに張られたキャラクターが「ヨコヲちゃん」で、これは八戸出身のアーティスト竹本真紀(9)さんの作品でした。また、五番街劇場などと名付けた空き店舗で映像の展示などもあり、夜には商店街の中の駐車場を借りて、野外のシンポジウムも開催され、私もトークに参加したのを覚えています。その合間に、騎馬打球を拝見しに行き、蕪島や種差海岸も巡ったのでした。
どなたがこんな名前を付けられたのか存じませんが、何と言っても「酔っ払いに愛を!」という名称ですから、いろいろと見て回った後は、「みろく横丁」はもちろん、市中あちこちで飲み歩きました。仕上げはたいていプリンスでしたね。人があふれた時は、カウンターの中まで入ってね。本当に夜中過ぎてからも賑わいが衰えないのが八戸の町で、全国的にも珍しい所です。
珍しいと言えば、仕事柄、私は文化やアートと街づくりを結ぶ活動を全国各地で見て歩いていますが、多くの土地で共通していたのは、わが町には何もないという、ないもの自慢でした。しかし、八戸はこの点でも独特で、八戸の人は八戸が一番だと思っていることがひしひしと伝わってきます。八戸を中心にしてものを考えて、取り組む、そうして辺境思想から脱却しているのです。
8.『祝祭芸術』
この「酔っ払いに愛を!」というプロジェクトは、アサヒアートフェスティバル(AAF)に参加していただいていました。全国各地のアートプロジェクトをネットワークする仕組みとして、私たちは、2002年に、このアサヒアートフェスティバルを立ち上げました。文字通り、北は北海道から、南は沖縄まで、全国各地の市民主体のアートプロジェクトを結び合わせたのです。これに参加していただいた活動は、のべ300を超えるかと思います。その参加者の多くは、現在も、全国各地のアートプロジェクトの運営を担っておられます。そういう意味では、アートマネジメントの実践的な共同独学の場でもありました。
八戸では、「はっち」の運営にも携わることになるプロデューサーを中心に、「酔っ払いに愛を!」を立ち上げて、AAFに参加いただいたのですが、今も八戸で活躍しておられる今川和佳子さんや柳沢拓哉さんらが、その運営を担って、全国のアートプロジェクト仲間を牽引していただきました。
フェスティバルの提唱した考え方を要約したのが、「市民」「未来」「地域」でした。それは、各地域の市民が中心になって活動しているアートプロジェクトのネットワークを生かして、未来社会を創造しようというものでした。
これまでの文化推進、アート支援の方法は、優れたアーティストの活動を中心に、展示や公演を企画運営し、それを広く一般の人の鑑賞に提供することで、人々の創造性を高めようとするものでした。そこでは、「質の高い芸術家」を行政と企業が「金を出すが口は出さない」で支援する。そのために文化施設を開設し、その運営に文化予算を充てる、という構図でした。
芸術文化の創造性の恩恵を受けるべきは、一般市民のはずで、それならば、これまでの文化支援策である専門家の支援と一般市民の鑑賞という構図は、間接投資にすぎるのではないか、という課題が見えてきました。そこで、私たちは、市民自らが企画し、運営するアートプロジェクトを直接支援する方が、投資効果が高いのではないか、と考えたのです。
その試行錯誤、実験の場がアサヒアートフェスティバルでした。ここではしたがって、多くの芸術祭のように、有能なディレクターを置いて、その構想の下に、ヒエラルキーシステムで運営するのではなく、参加プロジェクトの当事者が、すべて実行委員として、合議でプロジェクトを推進することとしました。
その上で、様々な工夫を重ねましたが、そのひとつは、毎年のフェスティバルのオープニングに、最先端のアート活動の紹介とともに、参加プロジェクトにゆかりのある、郷土芸能も紹介して、新旧の出会いを実現することでした。
それで、八戸からは「酔っ払いに愛を!」が参加するだけではなく、「えんぶり」にも来ていただいたのです。その日は東京でも奇しくもみぞれの降る寒い日で、ほっぺを真っ赤にした子どもたちが震えながら神楽を演じ、親の世代の方々が「えんぶり」を奉納していただきました。このように、全国各地のアートプロジェクトと、それぞれの土地にゆかりの郷土芸能を同じ場所で披露して、交流に努めたのです。毎年入れ替わり出演頂いたのは、島根県隠岐の島前(どうぜん)神楽、高知県梼原(ゆすはら)の津野山神楽、岡山県笠岡諸島の白石踊り、そして、八戸「えんぶり」などです。
こうした神楽やお祭りの構造が、現代のアートプロジェクトと通じるものがあるように感じていました。どこが共通しているかというと、神楽やお祭りは本来神様に奉納するもので、したがって、その参加者は、全てが作り手なのですね。つまり、近現代の芸術が、少数の特別の作り手と、それを鑑賞する多数の観客という構造だとすると、祭りの構造は、多数の作り手が、特別の神様に見ていただくために奉納するのだとすれば、祭りや神楽は、近現代の芸術と、まったく逆の関係にあることが解ります。
祭りや神楽の方をもう少し丁寧に見ていきますと、多数の作り手の演じるものを、神様だけが見ているのではなく、作り手である、奉納者たちも、神様と一緒に見ているともいえるでしょう。
平たくいうと、「みんなでつくりみんなで楽しむ芸術」、これが祭りや神楽の中で、大きな部分を占めています。いわば、芸術を芸術家の独占から解き放つ、というのが、私たちがアートプロジェクトに期待したことでした。
芸術を特別の芸術家から解き放ち、みんなでつくってみんなで楽しむとしても、それでは、芸術の特別性、つまりは高度な質が保証されないではないか。だから、市民のアートプロジェクトなど、質が低く、芸術とは呼べないものだ、という批評がありますね。
まあ、そうした側面がないとも言えませんが、しかし、これも祭りや神楽の構造にヒントがあるように思います。
というのは、あくまで神様に見ていただくのですから、あるいは、鎮魂、疫病退散、豊年の予祝にしろ、自分たちの奉納を神様に気づいていただく、さらには、神様に嘉納してもらい、その上で、しかるべきご利益(りやく)を恵んでいただくには、相応の努力が必要になります。奉納する芸能は、一通りの普通のものでは効果がないでしょう。よほど練り上げ、あるいは深化させ、場合によっては荘重に、あるいは絢爛豪華に、他に例を見ないほどの荘厳が要るのではないでしょうか。
したがって、これをヒントにすれば、市民アートプロジェクトの質が低いままとはならない可能性も高いと思います。
あくまでも市民が主体になることです。市民自治こそがアートプロジェクトには肝要ですね。行政や企業が主体となるのではなく、あくまでも市民主体のアートプロジェクトを、行政や企業が支えていくという構造が望ましいと思います。
こうした芸術文化の構造を、私は「祝祭芸術」と呼んでいるのです。いみじくも、アサヒアートフェスティバルに、フェスティバルという言葉を組み込んだ意味が、試行錯誤を重ねる中で、明らかになってまいりました。「祝祭芸術」の展開をしようとしたのです。その際に、八戸が、歴史的にも、きわめて先駆的な事例を積み重ねておられ、今も市民アートプロジェクトのネットワークの要の位置にあるのだというのが、本日の私の話の趣旨です。
八戸には、まだまだ無数のお宝があります。本日は、合掌土偶のことも、蕪島とウミネコのことも、イチゴ煮や鯖のことにも触れていませんが、わずかに紹介した事例からだけでも、八戸の独創性、総合性、そして、さらなる可能性について、いささかなりともお伝えできたとすれば幸いです。なぜ、八戸が世界にただ一つのかけがえのない都市というのか、なぜ未来創造の重要なハブだというのか、という話でした。ありがとうございます。
(注)
(1) JCDN:1998年設立の「ダンスの環境を創り、ダンスと社会を結ぶ運動体=アーツサービスオーガニゼーション」で、特定非営利活動法人(NPO)Japan Contemporary Dance Networkの略称。2008年当時、「踊りに行くぜ!!」というプロジェクトを全国展開し、各地のダンサーやコリオグラファーの発掘支援を行っていた。
(2) 三社大祭:重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産
(3) えんぶり:重要無形民俗文化財
(4) 新羅神社:三社堂(さんしゃどう)又は虚空蔵堂(こくぞうどう)と称され、あるいは祇園という名称もあったとされるが、神仏分離に際して新羅神社と改称した。
(5) 菅江真澄:江戸時代後期の旅行家(1754年-1829年)。東北から蝦夷地を中心に、膨大な民俗学資料としての紀行文を残した。
(6) 豊島重之:精神科医であり、八戸を拠点とした劇団「モレキュラー・シアター」を主宰して、内外で活躍した(1946年-2019年)。
(7) 『砂丘への足跡』:千葉元の逝去の翌年1985年に刊行。さらに、2010年に復刻版を出版:千葉元追悼刊行委員会『砂丘への足跡-復刻版-』(羽永光利写真、千葉元文、医療法人財団青仁会、2010年) 吉川由美氏のご教示による。
(8) パトリック・ギゲール:フランスナント市のLe Lieu Unique館長。
(9) 竹本真紀:地元八戸出身のアーティスト。横浜黄金町バザールなどで活躍。