人が亡くなると、慌ててもっと生前にいろいろ知っておくべきことがあったのに、と不勉強を後悔する。馬鹿は死ななきゃ治らないというが、実のところは、人に死なれて自分の馬鹿さ加減を再確認するのだ。
この5月に前衛美術家、菊畑茂久馬が亡くなったと知って、慌ててその著書を探し出して『反芸術綺談』を読み返した。この本には、小冊子が挟み込まれていて、そこに宮迫千鶴の「モクさん・ミーハー」という文章が出ている。「モクさん(つまりは菊畑茂久馬)の破天荒な青春行状記は笑いながら読み進めたのだが、(山本)作兵衛さんのエピソードの箇所では、泣けて泣けて。“いい文章だねぇ”と言うと、わがオットセイの目にも涙。その夜は二人してモクさんはよか男たいと言い合って泣いていたのである」と、まるで、菊畑茂久馬の訃報に接して夫婦で泣いているような文章が出てきて、芸術家の予知能力の高さ、などという考えが浮かんだりした。しかし、これを書いていた当時の宮迫千鶴は四十歳に手が届いていないし、まさか一回りも若いご本人が、モクさんよりも、早々とこの世を去ろうとは、その当時思ってもいなかったであろう。宮迫さんは、実に2008年に急逝してしまった。
さて、宮迫さんとそのオットセイ谷川晃一さんに「よか男たい」と愛されたモクさんこと菊畑茂久馬とは何者だったか。
新聞の訃報などによると、「奴隷系図(貨幣)」などで知られる、「九州派」の中核だった前衛美術家である。その作品を、福岡市美術館、長崎県立美術館、国立国際美術館、国立近代美術館などが所蔵しているので、運よくたまたま作品が展示されていれば見ることが出来るだろう。戦後日本の前衛美術を語るとしたら、専門家も菊畑茂久馬に一応は触れるだろうが、世界的な再評価の著しい「具体」や「もの派」に比べれば、「九州派」はほとんど無視されているに近い。2011年の菊畑茂久馬回顧展が福岡市美術館と長崎県美術館を会場としたことに象徴的なように、九州以外の「絵描きや評論家」がほとんど看過したのは、「あれは一地方の一過性の前衛美術だったに過ぎないから」と言い訳が立ったからだ。
菊畑茂久馬は、すべてが密接に連動している四つの仕事をしたが、ほとんどのアカデミックな画家や中央の評論家や学芸員たちは、直接にその作品にも著作にも触れてみようとしなかった。
第一に菊畑茂久馬は生涯「絵描き」を自任してきたが、今も述べた通り、美術業界におけるその扱いは、冷淡なものだった。
第二に、菊畑茂久馬は太平洋戦争記録画、なかんずく藤田嗣治の作品を、いち早く絵描きの視点で再評価した。
菊畑によれば、藤田嗣治の〈手〉は一種の妖気をただよわせて、血のにおいに飢えたように派手にふるまいながら驀進し、「日本の近代美術史上最大の戦慄すべき凄惨な一大肉欲絵図を展開する」(『フジタよ眠れ』p.39)。「藤田は狂ってしまった」。「あの思い出深い懐かしいモンパルナスも、女の肌をおもわせる乳白のマチエールも、数々の栄誉も名声もみんな完全に捨ててしまった。藤田の悲しくも凄惨な、初老の狂乱であった」(同書p.40)と。そして、「我々は、たかが一枚の画布ほどにも、戦争このかた、それぞれの中にこのことを沈めていないのである。藤田とわれわれは今、全く緊張した関係にある」(p.42)と、菊畑はいっている。
太平洋戦争画のことは、もう終わったことにしたかった美術界に、画家として執拗に問いかけを繰り返し、その意味を明らかにしようとした。藤田の「八十一歳の長い年輪のなかの、たった数年の狂気の年輪だけが私を愕然とさせる」(『天皇の美術』p.230)。「これほどの“狂気の芸術”を生んでいながら、なぜ藤田は時代の証人となって、戦後の転向の喉もとに食いついていかなかったのだろう」(同書p.231)。「すでに太平洋戦争画の問題は、単なる絵画論や作家論の領域をはるかに越えて、戦後日本の思想の構造に牙をむいているのである」(同書p.232)と菊畑は追及の手を緩めない。当然にも、「絵描きや評論家」は菊畑をうざったい存在として敬遠した。
その三。筑豊炭鉱の記録画を描いた山本作兵衛の仕事を、菊畑は、絵として高く評価し、ついには山本作兵衛の一番弟子を名乗った。「絵かきの端くれとして作兵衛さんの記録画の紹介につとめて」きたが、「美術界の評価はさっぱり」だったと菊畑は語っている(『山本作兵衛と日本の近代』p.120)。
そして、これは、その第4の仕事にも連動する。1971年、「作兵衛さんの絵四百点ほどを東京の美学校の学生たちと一年半がかりで油絵で模写した縦二メートル六十センチ横十八メートルもある超大壁画が完成した時」、画廊で展示紹介したが「絵描きも評論家もほとんど来ませんでした」(同書p.121)と菊畑は述懐している。
山本作兵衛の仕事は、2011年にユネスコの世界記憶遺産に登録された。これを菊畑は「腰が抜けるような知らせ」と喜んではいるが、あくまでも、その絵としての創造性を重視し評価する姿勢で、菊畑は一貫している。ある意味で美術業界の専門家たちは、これがいわゆる世界遺産としてではなく、世界記憶遺産として登録されたことで、その表現としての創造性を検討する役割を逃れ得たことにほっとしたかもしれない。
しかも、菊畑は、山本作兵衛の作品を美学校で学生とともに模写した。菊畑は、ここでは美術教育者としての仕事をしている。しかし、またしても専門家たちにとってありがたかったのは、菊畑が東京藝大や武蔵野美術大学や多摩美術大学のようなアカデミズムでの美術教育に参画するのではなく、たかだか私塾「美学校」で教育に従事してくれたことであろう。美術教育者としても菊畑を無視することが出来たのである。
実は、私はその美学校で授業を担当したことがある。残念ながら、菊畑茂久馬が美学校を退任した後であったけれど。また若き日には美術にまったく関心がなかったために、山本作兵衛の模写が秘かに行われていたことを、全く知りもしなかった。「そのころの都内は、七十年安保闘争と相次ぐ学園紛争で荒れに荒れ、デモで全身びしょ濡れになった学生が泣き出しそうな顔で教室の扉を開け、黙って足場に登って行」ったと菊畑は記録している(『反芸術綺談』p.166-167)。若き日の私にもう少し世界を見る力が備わっていたら、そのびしょ濡れの学生が私だった可能性があっただろうに。そういう時代だった。
菊畑は、終生「絵とはいったいなんだろうか」という絵かきとしての視点を持って考え続けた。『反芸術綺談』には、例外的に菊畑に声援を送ったはずの美術評論家針生一郎との対談バトルが再現されている。これは今読んでも可笑しくて、訃報の前で不謹慎と思いながら笑いが止まらなかった。なんでも整理して型にはめたがる批評家に何がわかるか、という怒りと悲哀が伝わってくる。
美術界の専門家、絵描きや評論家は、菊畑茂久馬が九州にとどまり続けて去って行ったので、胸をなでおろしていることだろう。しかし、今頃は、藤田嗣治と菊畑茂久馬は二人して、地獄か極楽かは知らないが、門の前にどっかと腰を下ろして、次々とやってくる絵かきや評論家や学芸員に向かって、生前の仕事の薄ペライ奴はどんどん地獄へ送り込むぞ、と待ち構えているだろう。諸君、とんだ「モクさん違い」だったなあ、とか何とかいいながら。
(出版:海鳥社、1986年)