緊急事態を受けて、文化の世界にもいろいろの動きが出てきている。
たとえば、ミニシアターエイド基金が、順調に支援者を増やしていることは注目に値する。「多様な映画文化を育んできた全国のミニシアターをみんなで応援」する趣旨で、映画文化を「未来へつなごう」という。まことに分かりやすい。ひとりひとりの支援額の平均は1万円余りだけれども、それが億単位の基金を生み出す。
映画監督の深田晃司と濱口竜介の二人が発起人となって始めた。映画文化の灯を消さないために、映画の当事者が、けれども映画製作そのものでなく、これまで映画文化を支えてきて危機に陥っているミニシアターの支援を呼びかけた仕組みが共感を呼ぶ。
もちろん危機は映画に限らない。芸術、文化、アート、何と呼んでもいいが、あらゆる芸術文化アートが危機に陥っている。コロナ感染防止のためには、生きる上で必要不可欠な、それぞれの活動を暫く休止するか、あるいは、収入の保証はないのに、全く別の表現方法を開拓しなければならない。まことに理不尽だ。
だから、活動、事業、プロジェクト、イベント、何と呼んでもいいが、そうした芸術文化アート活動の自粛を要請した国や、都道府県には、灯を消さない責任がある。最低限の補償をする義務がある。
しかし、ことはそれだけでは済まないだろう。芸術、文化、アート、何と呼んでもいいが、こうした活動に携わってきた私たちは、一方で表現の自由を侵害されそうになると、当然にも抵抗し、闘い、表現の自由を獲得してきた。だから、今は芸術文化アート活動も著しい制約が必要だとしても、これは表現の自由に対する著しい制約であり、制約をかける側が補償すべきなのは当然である。しかし、同時に当事者としての矜持はどうなったのだろうか。あれほど、自分たちは、他にかけがえのない創造活動に取り組んでいると言ってきたのではないだろうか。それならば、この壊滅的な逆境を新たな創造活動の跳躍台にどうしてできないことがあるだろうか。
そういう意味で、「未来へつなごう」という、ミニシアターエイド基金の活動は、文化の自治のあり方の事例として、我々に希望をもたらしている。
排除の論理から包摂の論理へ
この言い知れぬ不安もやもや感は、もちろん先が見通せないことからきているが、実は、多くの人々が人格を否定されたように感じて心を傷つけられたからではないだろうか。それは「不要不急」という不用意な表現がまかり通っているためである。
休業要請の中には、微妙な領域があった。例えば、本屋と古本屋である。東京都職員の説明として報じられているところでは、本屋は学習参考書なども取り扱うので必要だが、古本屋は趣味的だから不要だという。当然、この説明に疑問を持ち、怒る人も出てくる。古書店から研究材料を収集する研究者にとっては必要不可欠であって、「趣味的とはなんだ」といいたくなるだろう。いや、趣味でどうして悪いのかという声もある。人は危機に陥った時、他人には趣味としか見えない、ささやかな活動によって支えられ生き延びてきたのだ。
だから、どのような活動も、不要不急のものなどありはしない。まず、このことをはっきりさせよう。ある活動が、あなたにとってはほとんど無意味かもしれないけれど、ほかの誰かにとっては、必要欠くべからざるものかもしれない。だから、国や自治体は「すべの活動はそれぞれに必要不可欠なことは、よく理解しているけれども、感染防止のために、それを一時中止していただきたい」というべきだったのだ。それを「不要不急の外出、活動は自粛するよう要請する」などと、高飛車にいうから、人々の心を傷つけてしまったのだ。
オリンピックは必要だが、ジョギングや散歩は不要不急ということにはならない。会員制クラブや高級料亭は必要だが、居酒屋やバーが不要不急ということにはならない。庭いじりも、老人ホームでの家族の面会も、子どもたちのボールけりも、すべて必要不可欠のことだ。しかし、「感染防止という目的のために、人と接する活動はすべて控えてほしい」というべきだったのだ。
「不要不急」といういい方は、まさに排除の論理だ。この排除の論理で、いくら国や自治体の責任者が自粛要請しても、「自分の活動はほかの人の活動とは違う。これは自分には必要だ」と主張したくなるのだ。現に、国の大臣や首相秘書官、あまつさえ責任者の家族までが自粛要請の例外を生み出そうとするのは、この「不要不急」という排除の論理が生み出した弊害の象徴である。
そもそも多くの人々が不信感を抱いたのは、毎週毎週「今週が山だ」と、あたかも狼少年のように不安を煽っておきながら、必要な情報を出さない、「よらしむべし、知らしむべからず」の手法が招いている。その一方で、感染防止と、生活支援のための制度設計に2か月もかけてきて、今なお多くの課題を抱えて右往左往しているのは、こんなことにまで利権を絡めようとする政治家と、忖度官僚と、情報隠蔽に寄与している御用学者と御用マスコミのせいだとする意見もあるようだ。そういう面もあるかもしれない。しかし、国も自治体も、本当は志も力もある人々の集まりだったのではないだろうか。志の高い有能な人々に力を発揮する場を与えていない不可解な力が働いているのかもしれない。
したがって、今からでも遅くはない、今、国や自治体の責任者が奮起するべきであり、そのための政策提案は、以下の通りである。
国や自治体は、「不要不急」のような表現を使って排除の論理で「自粛要請」したことを撤回し、すべての活動の必要性を認めた上で、しかし、感染防止の観点から、一定期間、原則すべての事業活動を停止してほしい、と表明しなおすこと。
これだけである。これまでにもベーシックインカムの導入、すべての教育機関の完全無償化等、多くの提言がなされているので、それらに追加すべきことは特にない。
市民自治の奮起を期待する
さて、その上で、さらに重要なことは、我々市民の自治についてである。
幸いにして、日本NPOセンターは、4月24日に、「新型コロナウイルス」NPO支援組織社会連帯(CIS)を設立したと告知している。市民社会創造ファンドは、粛々とNPOや市民活動への助成情報発信を継続している。ひょうごコミュニティ財団は、額は大きくないが3月中に緊急助成事業として「子どもの居場所を守る!緊急活動助成」を実施している。パブリックリソース財団は、4月13日に、ゴールドマン・サックスの支援を受けて「ゴールドマン・サックス 緊急子ども支援基金」を開設し、緊急助成プログラムを公募した。このように、NPOや民間公益財団等、民間の公益活動、市民による公共は、それなりに迅速な動きを見せている。しかし、東日本大震災の時と比べても、あまりにも動きが鈍いと感じる。これが近年の市民自治能力の低下を示すものでないことを祈りたい。いやそうではない、という市民自治の奮起を期待したい。
民間公益団体による緊急支援を
感染症の流行がいつ収束するかはわからない。けれども、我々の生きる力を奮い立たせる様々な活動が、そして、それを生み出す人々が生き延びていてもらわなければならない。そのためにも、民間の公益団体は、公演や展示といった目に見える活動だけを支援するのではなく、定款の定めを弾力的に運用して、現在のアウトプットの有無を問うのではなく、今後も活動を継続する意志さえ示せば、芸術家アーティスト、芸術文化団体などなど、何と呼んでもいいが、個人や団体に助成金を出すべきであろう。これまで支援した実績に基づいて、個人団体に意思確認して、一律に助成金を提供する方法もあるだろう。
そもそも、芸術文化アートの活動を、「イベント」と表現したことも課題を生み出してしまった大きな要因の一つである。公演や展示の手前には膨大な制作創造の過程があり、ここに労力と費用と時間がかかっている。本来、この創造過程をこそ支援するのが公益団体の仕事であるべきだったのだ。今こそ公益団体も、その事業展開のパラダイムシフトをはかるべきであろう。
場合によっては、今こそ公益団体はファンドレイジング活動を実施して、助成金を速やかに届ける活動をしてもらいたい。こんな時期に募金が成り立つだろうかとの疑問もあろうが、冒頭に紹介したミニシアターエイド基金がその回答を示している。
芸術文化に携わる数多くの企業財団や企業メセナに携わる公益団体の奮起を期待したい。
芸術文化アートよ、奮起せよ
芸術、文化、アートなどなど、どのような言い方でもいいが、それが危機に陥っている。それでも、表現者たちは、今の社会をじっくりと観察し、思いもかけぬ手法で立ち上がってくるであろう。これまでもそうして危機を乗り越えてきた。いやそれだけではなく、社会のパラダイムシフトの転換を、表現者たちは先取りしてきた。
一例をあげると、ストラビンスキーが生み出した『兵士の物語』である。第一次世界大戦とこれと連動したロシア革命によって作曲家ストラビンスキーはロシアにおける財産を没収されてしまう。すなわち、彼の立場から言わせれば、「未曽有の惨禍」により経済的に大変な苦境に立ったことになる。
この惨禍で、すべての大規模公演が中止に追い込まれ、手持ち資金も極端に不如意となった。ストラビンスキーが得意としてきた、大規模なバレエ団とオーケストラと、これを支えるスタッフを維持することはできなくなってしまった。ともかく金もないし、人手もないし、それでも、人が生きていくうえで不可欠の芸術をどのように創造するか。無一物の芸術家は再起できたのだろうか。
ストラビンスキーは、この苦境を打開するために、最小限の人数で上演できる総合舞台芸術作品を生み出した。舞台に登るのは、語り手、兵士、悪魔の三人の登場人物と7人のオーケストラだけ。こうして誕生した『兵士の物語』、この人数ならばなんとか巡業ができるかもしれない。たとえ観客が半減以下になっても、コストパフォーマンスを維持できる。こうして、それまでは絶対だと思われていた大規模のオーケストラ、多数の歌手やダンサーがいなければ成立しないと思われていたオペラやバレエに、新たな表現手法が登場する。
もちろん、今はこうした手法さえもとることができない。だから、これまでの活動をネットに上げるという手法で多くのアーティストや芸術団体は当座を乗り切ろうとしている。また、様々な芸術団体、グループのネットワークが、相互扶助の試みを始めている。全国小劇場ネットワークやJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)などが、お互いに情報を収集して、これをメンバー間に発信して、活動を始めつつある。また、これまでの活動を休止してしまっては、本当に生きていけない人もいる。コミュニケーションの手段が不如意の人々がいる以上、活動を中止するわけにはいかない。だから、横浜の「アートラボ・オーバ」はいつも通りの活動を続けている。歩き続けなければならない。
一方で、『兵士の物語』は、私たちに大きな教訓を示唆してもいる。物語の主題は、悪魔に魂を売り渡すかどうかが問われていることだ。この10年余りの間、国や自治体が様々な支援制度を生み出してきた。助成金の額があまりにも少なすぎるとか、その運営方法が現場に即応していないとかの批判はあったものの、こうした制度のおかげで、多くの芸術文化団体や、アートプロジェクトが息をつき、あるいは誕生してきた。文化芸術振興基本法(2017年改訂により文化芸術基本法)が成立した時のことを記憶しておられる方も少なくないだろう。成立を歓迎する一方で、国が芸術文化の中身を決めるのか、という反発もあった。国や自治体から助成金を受けたとしても、表現の自由までは売り渡してはいないのだからと、それまで懐疑的であった芸術文化団体も、こうした助成金を積極的に活用するようになった。そしてそれらが、いくつもの成果を生んできてもいる。
さてしかし、もう一度立ち止まってよく考えてみたい。本当に魂まで売り渡していなかったのかどうか。助成金を確保することは必要なことだ。しかし、本当に細心の注意を払い続けていなければ、いつ魂を売り渡したかどうかさえ、はっきりしないほど悪魔は巧妙だと、『兵士の物語』はいっている。
東日本大震災の後、アーティストにできることは何もない、できるのは一市民として、瓦礫を片付け、津波がもたらした泥を掻き出すことだけだと、被災地で毎日泥掻きをして、しかし、その生々しい写真を発信し、中には腐敗してパックが膨れ上がった魚の放つ悪臭まで届くかと思われるような活動をしていたアーティストがいた。どんな状況下でも、社会を観察し、活動を継続し、苦境をバネとして、新たな表現を生み出すのがアーティストではなかったか。大震災の時のタノタイガの仕事がそういうものだった。そういう魂を堅持しているタノタイガのようなアーティストも何人もいたし、いるに違いない。そういう人々の仕事に触れて支えられて、私たちは、苦境を乗り越え、何とか生きながらえてきたのだ。
答えを急ぐことはない。時間をかけていいが、人生に必要欠くべからざる芸術、文化、アートだと主張してきたのだから、ギタリスト鈴木大介のいうように、「全く今までに存在しなかった新しい業態を開発する」ことが求められている。今こそじっくりと観察し、いつの日か、雨後の新緑のように思いもよらぬ新鮮な姿を見せてほしい。三島由紀夫に扮した森村泰昌に倣っていおう。芸術、文化、アートよ、奮起せよ。