シェイクスピアの全37戯曲の完全上演を目指す「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の第37弾の公演が5月12日に開幕した。最後に取り上げたのが、題名もまさにシリーズの終幕に相応しい「終わりよければすべてよし」。
完結にあたり、この「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の意義や成果をあらためて総括してみたい。もちろん、シェイクスピアの全37戯曲を上演したこと自体がたいへんな偉業であるし、また上演に伴って、松岡和子氏による新たな個人全訳が達成されたことも目覚ましい成果であった。でも、同シリーズの意義はそれだけではない。
第一に、この「彩の国シェイクスピア・シリーズ」によって、演劇における戯曲の重要性が再認識されたのではないかと思う。シェイクスピアは、日本で言えば、かぶき踊りを創始したと言われる出雲阿国とほぼ同時代人である。そのような400年以上前の戯曲であっても、時代を越えて上演され続ける価値のある作品が存在するのである。そして、それらの名作戯曲を現代的に演出した舞台作品を鑑賞することは、最上の演劇教育となり得る。翻って、21世紀になってからのここ20年間に日本で創作・上演された戯曲のうち、再演に耐える作品はいったい何作品あったのであろうか。もちろん、シェイクスピアの背後には、時代と共に忘れ去られていった作品が累々と横たわっているはずた。その意味では、将来の新たなシェイクスピアを生み出すためにも、すそ野の広い作品の創造活動は必要である。では一方で、1970年代以降の日本の名作戯曲たちが今日、どれだけ再演されているであろうか。この「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の成功は、新作上演の支援に偏った現在の演劇政策について、いったん立ち止まって再考する、良い契機となるのではないか。
第二の意義は、パフォーミング・アーツにおいて、芸術性と興行性の両立が可能であることを見事に証明したことである。一般的に、エンターテインメントの興行としての舞台と、芸術性を追求する作品は別物と考えられがちである。これに対して、「彩の国シェイクスピア・シリーズ」(その他、蜷川幸雄氏の演出作品全般)は、アイドルや人気タレントを主役に起用しつつ、脇を芸達者の名優たちが固めることで、広報・集客と演技の水準の双方で成功を勝ち取った。もちろん、これは蜷川幸雄氏による厳しい演技指導と卓越した演出技法、さらに表向きは物腰柔らかで実は剛腕の渡辺弘事業部長の存在を前提としたものであった。一方で、ある意味で日本の伝統的な「歌舞伎」の興行を継承したシステムであったとも言える。すなわち、歌舞伎では特定の家柄出身の役者にのみ主役が与えられる一方で、その他の役は国立劇場の歌舞伎俳優研修の修了生が担うというハイブリッド型の編成となっている。「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の中には、ぜひ再演してほしい名作舞台がいくつもあるので、今後とも、こうした手法による作品制作が続くことを期待したい。
第三の成果は、名演出家・吉田剛太郎の誕生である。2016年5月に「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の初代芸術監督であった蜷川幸雄が逝去した後、同年10月に吉田はその後継として2代目芸術監督に就任した。もちろん、今は無き渋谷ジャンジャン等で上演していたシェイクスピア・シアターの頃から、吉田が名優であることは周知の事実であった。とはいえ、吉田が演出家としての才能をこれほどまでに高いレベルで開花させると事前に予想できた人がどれだけいたであろうか。このことは単に吉田個人の名誉だけでなく、演劇界全体に大きな意義があったと考えている。すなわち、俳優としてキャリアを積んだ演劇人が、演者としてだけの人生ではなく、演出家(または芸術監督等)として活躍することもできるという「複線の人生」のロールモデルが誕生したのである。言い換えると、演劇界全体に対して、多様で柔軟なキャリア構築の可能性を提示したことになる。そのことをみごとに体現した吉田に喝采を送りたい。
なお、公演の初日(5月12日)は蜷川幸雄の命日でもあった。
「終わりよければすべてよし」のラストで、舞台一面に広がる季節外れの彼岸花が、まるで蜷川幸雄への供養のように美しく映えていた。
喜劇なのに、なぜか泣ける舞台。
蜷川幸雄もこの公演を天国から観劇して、きっと喜んでいたのではないかと思う。
ありがとうございました、蜷川さん、そしてこのシリーズの実現に関わった全てのみなさん。
最後に、蜷川さんに献杯。