「1970年4月7日、大阪万博の会場にピンク・フロイドのサウンドが響いた。」
このように書くと、あたかも1970年の大阪万博において、英国のプログレッシヴ・ロックのバンド、ピンク・フロイド(Pink Floyd)が来日公演を行ったかのように誤解されてしまうかもしれない。実際には、ライブ演奏ではなく、ピンク・フロイドが音楽を担当した、バーベット・シュローダー(Barbet Schroeder)製作・監督の映画『モア(More)』が、本稿執筆の半世紀前(1970年4月7日)に大阪万博のフェスティバル・ホールにて上映されたのである。この『モア』については後段であらためて述べることにしたいが、ちなみに、この映画『モア』は、「日本国際映画祭」の一本として上映されたもので、翌4月8日には、同じ映画祭の中でフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)監督の『サテリコン(Satyricon)』が上映されている[*1]。
さて、たしかに1970年の大阪万博においては、ピンク・フロイドのライブは実施されていない。ただし、大阪万博を開催したことによる「レガシー」として、翌年以降、ピンク・フロイドをはじめとする、海外のミュージシャンたちの来日公演が実現したと考えられるのである。そこで、この小論においては、大阪万博が日本の音楽シーンに与えたレガシーについて論じてみたい。
もちろん、1970年の大阪万博開催以前から、ポップスの分野では多数の歌手が来日していたし、1966年にはビートルズの、最初で最後の来日公演も実現している。ただし、大阪万博開催の翌年となる1971年には、以下のように毎月のように大物ミュージシャンたちが来日していたことが、音楽ファンが自分の所有するチケットを掲示するWebサイト[*2]等を参照すると確認できる。また、1972年には、ウドー音楽事務所(1967年設立)が日本初のロック・プロモーターとして活動を開始しており[*3]、海外からのミュージシャンの来日ラッシュはさらに加速していったと考えられる。
来日ミュージシャン | |
2月 | Blood, Sweat & Tears |
4月 | Free |
6月 | Chicago |
7月 | Grand Funk Railroad |
8月 | Pink Floyd |
9月 | Led Zeppelin |
9月 | UFO |
10月 | Elton John |
このように大阪万博開催以降、海外のミュージシャンたちの来日公演が急増した理由としては、大阪万博を契機として、海外のレコード会社やミュージシャンたちが日本という市場に目を向け始めたため、とも考えられる。もちろんそうした背景もあるであろうが、実はそれ以上に「音響」というテクノロジーが来日公演急増の大きな要因であったと筆者は推測している。
PA(コンサート音響)業界で老舗企業であり国内最大手のヒビノ株式会社(1956年創業)のWebサイトには、当時の状況を窺い知るためのエピソードが掲載されている。それによると、1970年、同社の創業者で自身も技術者である現会長・日比野宏明氏は大阪万博に出かけた際、万国博ホールで行われていた「セルジオ・メンデス&ブラジル ’66」のライブコンサートを体験した。このコンサートで使用されていた音響機材は、アメリカの音響機器メーカーであるシュア社(Shure、1925年創業)のボーカルアンプ(スピーカーシステム)で、クリアでパワフルな音質であり、かつ非常にコンパクトな筐体であった。一方で、実は当時の日本ではまだPA(Public Address)あるいはSR(Sound Reinforcement)という概念は確立しておらず、コンサートの際には各ホール据え付けの音響装置をそのまま使うのが一般的だった。しかし、シュアの機器であれば国内のコンサートや舞台の音響装置として売り込めると考えた日比野氏は、同年8月にはシュアの国内販売代理業務を開始したのである[*4]。
翌1971年4月、ヒビノはコンサート用音響機材のレンタルと設置・オペレートを行う専門部署として、新たにPA事業部を立ち上げた。当時、海外の一流アーティストの中には、自らの「音」に徹底したこだわりを持ち、世界中のどのコンサート会場でも満足のいく音が出せるようにと、お気に入りのPA機材をわざわざ本国から持ち込んだり、オペレーターをはじめとする専属のPAスタッフをツアーに帯同させたりするケースも少なくなかった。しかし、アーティスト側としては、スピーカーなど特に大型の機材を海外から持ち込む手間とコストを考えれば、各公演先で現地調達できるに越したことはない。当時シュアをはじめとする輸入音響機材を持つ業者は数少なく、ヒビノのレンタルサービスは特に海外アーティストの招聘元に重宝される存在となっていった[*5]。
このようにコンサートの音響テクノロジー分野における、ヒビノを先駆者とする日本での基盤整備により、音響に神経を使うプログレッシブ・サウンドやもっと大きな音を出したいロック・グループの要求にクオリティ面で応えるとともに、経済的にもメリットを提供できる仕組みが日本国内で整っていったのである。このことが実証されたのが、国内外の人気アーティストが大挙出演する大型野外フェスティバルの日本における草分けであり、伝説のコンサートの一つとしても語り継がれている「箱根アフロディーテ」である。
大阪万博開催の翌1971年、8月6日、7日の2日間にわたって、「箱根アフロディーテ」はニッポン放送主催で開催され、計4万人もの観客を集めた。そして、このビッグイベントの大トリを務めたのが、初来日となったピンク・フロイドであったのである。ピンク・フロイドは英国のWatkins Electronic Music(通称WEM)社製のスピーカーシステムを本国から持ち込んでいたが、野外ライブで十分な音を出すには本数が足りず、日比野氏が用意したシュアのスピーカーも併せて使うことになった。アルバム『原子心母』のファースト・トラックが始まると、他の出演バンドとはまったく違う「音」の迫力に、多くの観客は驚嘆したという[*6]。
このように、ピンク・フロイドが初来日した「箱根アフロディーテ」は、日本の音楽史上において、特筆すべきコンサートとなり、その後、来日公演ラッシュの幕開けとなるのであるが、このような現象をもたらしたのは、大阪万博における音響テクノロジーと一人のエンジニアの出会いであったのである。
さて、箱根アフロディーテのライブで幕開けに演奏された『原子心母(Atom Heart Mother)』は、大阪万博が閉幕した翌月、1970年10月に発表された、ピンク・フロイドの当時の最新アルバムであった。従前のアルバムと比較して、壮大でありながらもとても聞きやすいサウンドが特徴であり、全英チャートで初登場1位を記録し、ピンク・フロイドというバンド名を広く一般に普及させることに貢献した。この「壮大でありながらも聞きやすい」という特徴は、その後、1971年の『おせっかい(Meddle) 』でより洗練され、1973年の『狂気(The Dark Side Of The Moon)』で頂点を迎えることになる。
アルバム『原子心母』と同名のタイトル曲の制作には、実験音楽家のロン・ギーシン(Ron Geesin)が参加しており、クラシック音楽や現代音楽等のさまざまなエッセンスを含む6つのパートからなる壮大なロック・シンフォニーで、アナログLPではA面すべてを占めていた。この曲は、サザンオールスターズの桑田佳祐がパーソナリティを務める東京FM系列のラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」のオープニング・テーマとしても使用されていたこともあり、長大な曲であるにもかかわらず、ピンク・フロイドの楽曲中で最も有名なものの一つとなっている。
この『原子心母』のアルバム・ジャケットにはタイトルもアーティスト名も記載されておらず、あちらを向きながら顔だけが振り返っているホルスタインの写真だけがあしらわれているという印象的なデザインである。このシュールなジャケットはデザイン・チーム、ヒプノシス( Hipgnosis )が担当した。そして、日本盤(当時は東芝EMI)のタスキには、「ピンク・フロイドの道はプログレッシヴ・ロックの道なり!」というキャッチ・コピーが掲載されており、このアルバムの発売を契機として、日本において「プログレッシヴ・ロック(progressive rock)」というジャンルの用語が普及・定着したと言われる。
ところで、ピンク・フロイドの『原子心母』が、彼らの従前のアルバムと比較してかなり聴きやすいものであったとはいえ、やはりプログレッシヴ(前衛的)なサウンドであったことは確かである。こうしたプログレッシヴなバンドの来日が、大阪万博の早くも翌年に実現した背景として、「音響」テクノロジーという、コンサートの供給サイドの要因については前述したが、もう一つ、需要サイドの要因についても考慮すべきであろう。
すなわち、大阪万博が開催された1970年を節目として、海外のミュージシャンに対する日本人の関心が、さらには彼らのライブ演奏を体験したいという欲求が飛躍的に高まっていったのである。こうした需要サイドの欲求を高めることに作用したのが、「FM放送」と「ラジカセ」の存在であった。
日本におけるFM放送は、1969年3月1日にNHK-FM放送、同年12月24日にエフエム愛知、翌1970年4月1日にエフエム大阪、同年4月26日にエフエム東京、6月 1日にエフエム福岡と、1969年から1970年にかけて全国の都市部で開局されていった。FM放送はAM放送と比較してノイズが入りにくく、よりクリアな音でラジオを楽しむことができる。FM放送が開始される以前には、海外のミュージシャンの音楽をクリアな音質で楽しむためには、レコードで聴くしか方法はなかった。
万博に沸き返る1970年4月の大阪で開局したFM大阪は、全国で二番目という最初期の民間FM放送局であった。そして、本放送の開始は上述した通り4月1日であるが、試験放送の開始は3月15日で、同日は大阪万博のオープング日でもあった。FM大阪の社史を見ると、「EXPO’70(日本万国博覧会)のオープニング、昭和45年3月15日に照準を合わせて同じ日の開局を決めた」(井上1980:22)と記載されており、大阪万博がFM大阪の開局日程を前倒しにしたことを窺い知ることができる[*7]。これは、大阪万博の「前倒し効果(Forward Effect)」の一つとみることができるであろう。
この開局直後のFM大阪とピンク・フロイドには一つの縁がある。大阪万博の翌年、すなわちFM大阪開局の翌年でもある1971年6月20日(日曜日)の深夜3時、正確には月曜日の夜明け前の3時、ピンク・フロイドの「モアのテーマ曲」がFM大阪の「しんくう地帯」という番組のオープニング曲として放送されたのである[*8]。当時、日曜日深夜3時からの時間帯は機材の調整のため他局は放送をしていなかった。「しんくう地帯」の企画書においては、深夜にラジオのスイッチをひねっても何も聴くことができない時間帯を「真空地帯」と名付け、「真空地帯を破ってかすかに聞こえてくるピンクフロイド」(豊田1980:74)と記載されている。この「しんくう地帯」は企画当初からピンク・フロイドありき、の番組であったのである。そしてこの番組では、最新の洋楽をノーカットでオンエアしており、当時のリスナーのブログ[*9]を参照すると、『原子心母』」のA面を占めるタイトル曲もノーカット放送されたらしいのである。
さてここで、FM大阪の「しんくう地帯」という不思議な深夜番組が開始される原因となったアルバム『モア』について触れておきたい。本稿の冒頭で述べた通り、このアルバムは同名映画のサウンドトラックである。このサウンドトラックという出自のせいか、同アルバムに対するファンや批評家の評価は残念ながら低い。たとえば、2012年に発表されたピンク・フロイドのアルバム人気投票では、『モア』14作品中13位となっており、しかも続く最下位は、『モア』と同じシュローデル監督作品『雲の影』のサウンドトラックであった[*10]。
このように人気が低い『モア』であるが、しかし、ピンク・フロイドの音楽性を理解するうえでもとても重要な作品でもある。そもそもピンク・フロイドのサウンドはリスナーの想像力を喚起するような響きを有しているが、それは映画のサウンドトラックというフォーマットにうまく適合した。ピンク・フロイドのこうした音楽性を物語る有名なエピソードがある。
「『モア』よりも先に、フロイドがスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』のサントラをやる計画があり、キューブリックとフロイドのメンバーたちとの摩擦が形容しがたいほどのものとなり、計画のままキャンセルとなった」(立川1978:50)[*11]のである。ファンとしては、ピンク・フロイド版『2001年宇宙の旅』もぜひ観てみたかったと思うのであるが。
それはさておき、英国の音楽評論家によると「『モア』はグループの名前をストリート・レベルの大衆に自覚させることになった最初の時であった」(立川1978:50)と評価されている。実験的でありながらも、ポップなテイストの楽曲は当時のライブの重要なレパートリーとなっていた。実際、アルバムの中の「シンバライン(Cymbaline)」は、1971年9月の大阪フェスティバル・ホールで行われた単独コンサートのオープニング・ナンバーであった。
なお、この『モア』は、シド・バレット(Syd Barrett)の関与無しに制作された最初のアルバムでもあった。元バンド・リーダーであるカリスマ・ミュージシャンの影響から脱して、ピンク・フロイドが独自の道を歩み始めた最初の作品が、この『モア』であったのである。
さて、上述したように大阪万博と同日にFM大阪が放送を開始したわけであるが、この音質の良いFM放送で流れる音楽を、リスナー個人がラジカセ等を通じてカセット・テープに録音する「エア・チェック」と呼ばれる新しい文化的作法が急速に普及していった。そして、アーカイヴされた音楽を何度も繰り返し聴き返すという音楽的体験は、多数のコアな音楽ファンを生み出していった。前述した海外ミュージシャンの来日ラッシュという現象が生じた背景には、万博開催と同時期に開局したFM放送を通じた多数のコアな音楽ファンの生成という、需要側の要因も見逃すことはできない。
1971年7月のGrand Funk Railroad初来日時のパンフレットには、ナショナル(現・パナソニック)のラジカセの広告が1ページを丸々使用して掲載されている。この広告には、「数多い音楽番組から好きな曲、好きな歌手、ヒットしそうな曲を録りまくろう」「放送を楽しみながら録音できて面倒な手間はいっさい不要のワンタッチ式」といった惹句が踊っており、ラジカセという電化製品を通じて「エア・チェック」が普及し、また、ロックのファンを醸成していった当時の状況が窺われる。
「ラジカセ」とは、文字通り、ラジオとカセットレコーダーが一体化されたコンパクトな製品のことである。ケーブルやマイクを使用しなくてもラジオ番組を直接録音できるという簡便さと、ステレオに比較して安価な価格が当時の若者から爆発的な支持を得て普及していく。実際、2012年9月に埼玉県立近代美術館で開催された「日本の70年代 1968-1982」においては、70年代当時の大学生の部屋が再現されていたが、そこに「ラジカセ」も確かに置かれていた。
ちなみに世界初のラジカセは、1966年に発売されたオランダのフィリップス社の「22RL962」であると推定されている。また、日本初のラジカセは1967年に発売されたナショナルの「RQ-231」であるとされている[*12]。なお、翌1968年に発売された、アイワの「TPR-101」は、国産初のラジカセと紹介されることが多いが[*13]、実はそれは事実誤認である。一方で、「TPR-101」のボタン式の操作等のレイアウトのデザインがその後の各社のラジカセに踏襲されたため、「ラジカセの元祖」と呼ばれている。
なお、1970年の大阪万博前後に生まれた「エア・チェック」という文化体験の作法は、1982年にレコードよりも音質が良く、ノイズがないメディアであるCDが発売され、さらにこれらのCDがレンタルされるようになるとともに、徐々に廃れていく。「エア・チェック」が全盛であった1970年前後から1980年代初頭という期間は、偶然にも、ピンク・フロイドの主要な活動時期と重なる。
余談となるが、「エア・チェック」を通じてリスナー個人の元に蓄積されていったカセット・テープは、「自分の音楽を、いつでもどこでも楽しみたい」という需要を形成し、それが1979年7月から販売されたポータブルオーディオプレイヤー「ウォークマン」の開発の背景となった。個人の音楽アーカイヴが、さらなる新しい需要を誘発したのである。
FM放送の開局とほぼ時を同じくする1969年4月、ロックを中心とする月刊音楽雑誌『ニューミュージック・マガジン』(現在の名称は『ミュージック・マガジン』)が音楽評論家の中村とうよう氏らによって創刊された。すなわち、海外のロック・ミュージックがまず言説として紹介されるようになり、それが、FM放送の開局によって、言説から解放され、本来の音楽として聴取されるようになったのである。
さらにこうした動きと呼応するように、大阪においてロック(フォーク、ジャズ)喫茶が続々と開店していく。1969年8月、フォーク喫茶「ディラン」が難波で開店した。この「ディラン」の雇われマスターであった西岡恭蔵は、1972年7月にアルバム『ディランにて』でデビューする。また、1971年3月には、伝説のロック喫茶「マントヒヒ」が天王寺に開店した。こうしたロック喫茶は、音楽ファンやミュージシャン同士が出会い、情報交換することができるリアルな場として機能していった。
1971年7月には、日本で最初の情報誌「プレイガイド・ジャーナル」(通称「プガジャ」)が創刊された[*14]。同誌は、1970年代から1980年代にかけての関西のサブカルチャー・シーンに大きな影響をもたらすことになる。以上、概観してきたとおり、万博前後から1970年代にかけての大阪の文化力には、首都である東京に勝るとも劣らない豊饒さが感じられる。
こうしたことが、後の1978年に、日本初のインディーズ・レーベル「ヴァニティ・レコード」が設立されるなど、多数のミュージシャンを輩出するに至る文化的蓄積となっていったのだと推測される。
ところで、大阪万博がもたらした効果は、海外のミュージシャンの来日ラッシュだけではない。日本のロック・バンドの海外進出に関しても、大阪万博が契機となっているのである。
1970年7月12日〜19日大阪万博会場のお祭り広場で開催されたパフォーマンス・イベント 『ミニマル・サウンド・オブ・ライダー』 に日本のロック・バンド、フラワー・トラヴェリン・バンドが出演した。バンドのメンバーは、イベント期間中に万博カナダ館のイベント出演のため来日していたブラスロック・バンド、ライトハウス(Lighthouse)と親交を深め、これがカナダ遠征のきっかけとなる。翌1971年に、フラワー・トラヴェリン・バンドは世界最大の音楽市場を抱える、アメリカのアトランティックレコードと契約。4月に2ndアルバム 『SATORI』、シングル 「SATORI Pt.1 / SATORI Pt.2」リリースした。このシングルは、アメリカアとカナダでリリースされ、「SATORI Pt.2」はトロントのローカル・チャートの第8位にランクされるヒットとなった[*15]。
この『SATORI』は、無国籍風の旋律を奏でる独創的なスライド・ギターとハイ・トーンのボーカルが音楽的な特徴となっているが、それ以外に、全曲の歌詞が英語であるという点も大きな特徴として指摘できる。これは、同アルバムのプロデューサーであった内田裕也氏のアイディアとされる。なお、関西のロック界の首領(ドン)と称される内田氏は、残念ながらつい先月(2019年3月)に逝去された。
1970年の大阪万博が生み出したこれらのレガシーを鑑みると、2025年の大阪万博に対しても文化面でのレガシーに対する期待が高まる。すなわち、かつての「しんくう地帯」のような新しいメディア、当時の「PA(音響)」のような新しいテクノロジー、「ラジカセ」のような新しい製品やサービス、「エア・チェック」のような新しい文化的作法、そして故・内田裕也氏のような新しい感覚のプロデューサーを、2025年の大阪万博も生み出すことが期待されるのである。
以上
本稿は、2019年5月3日~6月10日に万博記念公園内EXPO’70パビリオンにて開催された「私の大阪万博思い出の品展~永遠の万博っ子から次の万博っ子へ~」のために同年4月に執筆された。実は依頼されたのは750字程度の小文であったのだが、私の悪い癖で書いているうちに止まらなくなってしまい、結果としてこんなに長いテキストになってしまった。その後、公表する機会がないまま1年が過ぎてしまったが、今回、Active Archipelagoの本コラム欄にて掲載する運びとなった。
註
- 1.「大阪万博EXPO70/47年前の今日は」
- 2.たとえば、「懐かしの70年代ロック・コンサート」など
- 3.ウドー音楽事務所「ウドー音楽事務所について」
- 4.ヒビノ株式会社「「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」第1章 第6節 Shureとの出会い
- 5.ヒビノ株式会社「「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」第1章 第7節 PA事業部設立 コンサート音響分野に乗り出す
- 6.ヒビノ株式会社「「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」第1章 第8節 伝説の「箱根アフロディーテ」でピンク・フロイドの音響を手掛ける
- 7.井上誓(1980)「本放送開始に向けて」.エフエム大阪『音づくり この10年 エフエム大阪開局10周年記念出版』所収.
- 8.豊田一美(1980)「合法的海賊番組『しんくう地帯』」.エフエム大阪『音づくり この10年 エフエム大阪開局10周年記念出版』所収
- 9.「真空地帯」創料児のブログ
- 10.「ピンク・フロイドの「アルバム人気投票」、結果発表」(2012)
- 11.立川直樹(1978)『ピンク・フロイド 吹けよ風・呼べよ嵐』シンコー・ミュージック
- 12.スタイルワークス(2017)「ニッポン ラジカセ 大図鑑 1967-1988」スタンダーズ.P.5-6
- 13.たとえば、「産業技術資料データベース」
- 14.東京圏では「ぴあ」が1972年に創刊
- 15.「フラワー・トラヴェリン・バンド公式サイト」