前号では有吉佐和子の小説『恍惚の人』をとりあげたが、認知症の高齢者は文学だけではなく、実はマンガにおいても主要なキャラクターとして描かれている。
「コマ割り」という表現手法
マンガ作品において認知症当事者の視点から世界を描く場合、「コマ割り」と呼ばれる、マンガ独自の表現手法が活用される。
具体的には、コマ割りの枠線を他のコマと変えたり、枠線の外側を黒塗りにしたり、逆に枠線をなくしたり、裁ち切り(紙面いっぱいに描かれたコマ)にしたりすることで、それらのコマが現実の描写ではなく、認知症当事者の体感している世界であることを読者にわかりやすく表現することができるのである。また、前後に何も描かれていないコマ(捨てゴマ)、またはテキストだけの印象的なコマを配置することよって、時間と場所、さらには現実と非現実がその前後で大きく転換したことをわかりやすく描き分けることもできる。
たとえば、高齢者介護をテーマとしたシリーズ、くさか里樹の『ヘルプマン!』は、11・12巻が「認知症編」(二〇〇八~〇九)となっており、主人公である元広告代理店の営業部長(六十六歳の設定)が認知症となって感じる世界を描くにあたり、前述した「コマ割り」の技法が十分に活用されている。
また、『青い鳥 わくらば』(二〇一四)は、サブタイトルの「わくらば(病気の葉)」のように、失われてしまった過去の幸せの情景や薄れつつある記憶を、擦れた網掛のトーンで儚く表現している。
こうしたマンガの表現技法に対して、文学や映画で認知症当事者の視点を描こうとすると、読者や鑑賞者にとって視点の切り替えがスムースにいかないので、どうしても超現実的で前衛的な表現となってしまうのである。
幼女の姿で描かれる老女
高野文子の『田辺のつる』(一九八〇)は、認知症マンガの最初期の作品であろう。平凡な家庭に暮らす認知症の老女つるを幼女の姿で描くと言う、文学や映画では為しえないマンガならではの手法により、認知症高齢者の意識をリアルに描きあげることに成功した。
一九八三年には、大島弓子が『金髪の草原』を発表する。同作は、認知症(記憶障害)のため自分のことを二十歳のままだと思い込んでいる独居老人と、そのお宅にヘルパーとして赴任した若い女性の六〇歳ほどの年齢差の疑似的恋愛の物語である。同作において、主役の一人である独居老人は、若者の姿で描かれている。もっとも、このような手法は大島弓子が高野文子の作品をパクったというわけではない。もともと大島弓子は、名作『綿の国星』(一九七八~)において、主役である猫たちを擬人化して描いており、『金髪の草原』はその自らの手法を応用したものであると考えられる。
その他、岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』(二〇一二)は、認知症の母親を介護する自らの体験を題材としたマンガである。同作では、認知症の症状が進む中で、死んだ夫(作者の父親)や幼馴染と楽しそうに話をする母親の姿が抒情的に描かれている。死者と生者が共有する場面を、前衛的な手法ではなく、誰にでもわかるように描くことができるのも、マンガならではの表現であろう。
以上のように、「認知症」はマンガにおいて繰り返し描かれるテーマとして定着しているのである。
そして、これらの「認知症マンガ」を読むと、認知症に関しての一定の理解が得られると同時に、「マンガ」という表現形式の特性に関しても理解が深まるのである。