1. はじめに
新型コロナウィルスの感染拡大を防止するため、全世界的に外出自粛の要請を受けて、多くの人が自宅で過ごす時間が増えている。その結果、劇場・音楽堂、コンサートホール、ライブハウス、映画館等の文化施設において、ほとんどの事業が中止や延期を余儀なくされている。こうした事態に対して、私は既に4月21日に「新型コロナウィルスに向き合う文化政策の提言」を提言した 。
一方で、こうした状況の中で、Amazonプライム、Netflix、Hulu等の動画配信の登録者が大きく増加しているようである。また、静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center : SPAC)による「くものうえ⇅せかい演劇祭2020」(World Theatre Festival on the Cloud)など、無観客での公演をオンラインで動画配信する試みも展開され始めている。
このようなパフォーミング・アーツ分野における動画配信は、大好きなアーティストの公演に行くことができないユーザーと、公演を開催することが困難なアーティストが、コミュニケーションを持続したいという双方のニーズを満たすソリューションになることが期待される。そこで、ここでは、パフォーミング・アーツにおけるオンライン動画配信の「課題」と「可能性」について検討してみたい。
2. パフォーミング・アーツにおけるオンライン動画配信の課題
1 課金しないという課題
上述したAmazonプライム、Netflix、Hulu等に代表される動画配信サービスは、当然のことながら課金決済も含めたプラットフォームとなっている。
これに対して、今般のコロナに対応して立ち上がったものは、課金という観点からは2つのグループに大別できる。一つは、「アップリンク・クラウド」に代表される、主に映画館が主催する課金型の動画配信である。もう一つは、「くものうえ⇅せかい演劇祭2020」に代表される、主に劇場や劇団等が主宰する無料の動画配信である。
第一のグループである映画館が主催する動画配信では、映画作品そのものが配信され、先行する動画配信サービスと同様に課金もなされる。これは、1999年5月にP2P技術を用いたファイル共有サービスのNapster(ナップスター)が米国でサービスを提供し始めて以来、約20年もかかってようやく構築することが出来た、オンラインによるコンテンツのサービス提供と課金決済の仕組みが、社会に定着したからこそできたことでもある。
これに対して、第二のグループである劇場や劇団が配信するコンテンツは、公演の映像のほかに稽古や過去の作品の映像、出演者等によるトーク等、さまざまである。これは、公演が中止または延期となったことを受けて、緊急避難的に、今すぐ配信できる映像を配信している状況だと見ることが出来る。そして、これら劇場や劇団による動画配信のほとんどは無料となっている。無料であること自体は、多くの視聴者にとって恩恵であろう。ただし、無料で、課金決済の仕組みがないということには、次の2つの課題があると考えられる。
一つは、課金決済がないということは、劇場や劇団に収入がもたらされないということであり、中長期的にみて経済面での持続可能性が無いということを意味する。今般はコロナウィルスに向き合うという観点から緊急避難的に実施された試みが多いのであろうが、以前のように劇場で公演が実施できるようになれば、これらの動画配信はまるで潮が引くようになくなってしまうのかもしれない。
もう一つの課題は、これらの動画配信がそもそも無料と設定された背景についてである。おそらく、劇場や劇団の関係者の多くは、これらの動画配信と劇場での公演を全く別物として認識していると思われる。そして、これらの動画では、劇場での公演の完全な代替にはならないという限界を認識しつつも、開催できなかった公演の代替にできるかぎりなるようにと考えているのではないか。それゆえに、劇場のような料金を課金することはできないと考え、無料で配信しているものと推測される。
しかし、このような「緊急避難の」「不完全な代替品」という位置づけでは、動画配信の可能性を狭めてしまうと考える。後述するように、動画配信には従来の公演にはない、新しい可能性が包含されていると考えられるのである。
2 ライブでないという課題
さて、上述したように、動画配信を公演の「不完全な代替品」と劇場や劇団の関係者が見てしまう要因として、それらの動画の大半が「ライブではない」という点を指摘することが出来る。
もっとも、公演を録画した映像を配信するという形態が今まで無かったわけではない。たとえば、松竹「シネマ歌舞伎」では、高精細度のカメラで撮影した歌舞伎の公演を、映画館の大スクリーンにてデジタル上映で楽しむというもので、まるで劇場の特等席で鑑賞しているかのような迫力が売りであった。また、「METライブビューイング」も同様に、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(通称:MET)で上演される世界最高峰のオペラを、現地で上演されたわずか数週間後に字幕を付けて日本全国の映画館で上映する事業であった。そして、本来であればニューヨークに行かなければ鑑賞できない舞台を、臨場感あふれる音響システムで、しかも比較的リーズナブルな価格で鑑賞できるので、ファンの支持を得て固定客を獲得していた。
しかし、ライブではないということは、一言で言えば「予定調和」ということになる。たとえドラマとしての起伏があるとしても、あらかじめ定められた終局へ向かって、粛々と映像が「予定調和」で進行しているにすぎない。
それらの動画を見ても、かつての劇団・天井桟敷のように、いつとも知れぬ間に公演が開始され、それが本当に終わったのかどうかも判然としないようなかたちで演者たちが退けていくという、夢うつつのような感覚に至ることはない。
また、高齢者の演劇集団「さいたまゴールド・シアター」の公演のように、時に演者の台詞が飛んでしまい舞台が中断する中に、演出家が割って入るというような、一期一会の体験を得ることも出来ない。
3 場を共有できないという課題
では、ライブで公演を配信すれば課題は解決するのか、というと実はそうではないということに思い至る。動画配信では、どうしても乗り越えることのできない、鑑賞の本質に関わる壁が存在するのである。
かつて、劇場の暗がりの中で、隣の観客が笑うのにつられるように自分も大笑いしたり、隣の観客が固唾をのむ様子がヒリヒリと伝わってきたり、同じ場を共有して観劇するという体験は、私たちの鑑賞を幾倍にも豊かなものにしていた。
今般のコロナのような事態となり、劇場に行くことが出来なくなってみると、あらためて、平時において、劇場で多くの人と場を共有しながら公演を鑑賞するということが、どれほどかけがえのない体験であったのかが思い知らされる。
3. 動画配信の可能性
このように最初に「課題」を述べてくると、動画配信にはあまり未来性が無いように感じられるかもしれないが、決してそうではない。いつでもどこでも鑑賞が可能という利便性ではなく、もちろん単なる暇つぶしとしての効用などでもなく、私は以下の3つの大きな可能性を動画配信に感じている。
1 デジタルアーカイブとしての可能性
演劇や舞踊は実演芸術であるため、公演の後に作品自体は形あるものとしては残らない。もちろん、音楽も実演芸術である点は同様であるが、音楽分野は特にここ100年間についてはレコードやCDというパッケージ・メディアの普及とともに発展してきた歴史があるため、公演はCDやDVD等のメディアで記録され、それが経済循環のツールにもなっている。言い換えると、音楽分野においてはビジネス活動そのものが、あらかじめアーカイブを内製化しているのである。
こうした特性から、演劇や舞踏等は、当該アーティストが活動を休止したり死去したりした場合、音楽や美術等の他の芸術分野と比較して、風化・忘却がより早く到来してしまうと危惧されるのである。そして、記録・継承することが、音楽分野のように経済活動として担保されていないのであれば、公的な「デジタルアーカイブ」によって、記録・継承の仕組みを構築することが必要となる。
こうした背景の中で、パフォーミング・アーツの動画配信が普及・定着していけば、それらの映像コンテンツの蓄積が、そのままパフォーミング・アーツのデジタルアーカイブとなることが期待されるのである。動画配信がもたらす最大の可能性の一つは、このような後世への文化の継承であると考える。
2 教育素材としての可能性
また、パフォーミング・アーツの動画配信のコンテンツは、そのままパフォーミング・アーツの教育素材ともなる。
もちろん、「動画を見たからと言って、舞台を見たことにはならない」という意見が根強くあることも理解しているし、現実に、舞台の演出のすべてが動画の中で記録されるわけではないことも事実である。
ただし、私は現在の日本において、演劇教育の必要性が極めて高まっていると考えている。それは、逆説的ではあるが、日本の若手演劇(の一部)が海外で評価され始めているからである。
日本の若手演劇(の一部)は、その抑揚やリズムをずらした独特の台詞回しが評価されているとも言うが、それはそもそもまっとうな演技や発声の教育を受けていないから、そのような台詞回しを採用しているではないのか。
また、日本の若手演劇(の一部)は、音楽や照明などさまざまな要素を多用することが評価されているとも言うが、それはむき出しの役者だけではとても見ていられない舞台だから、しかたなく多様な要素を組み合わせているのではないか。
さらに、日本の若手演劇(の一部)は、まるで伝統をすっぱり捨ててしまい、従来とは異なる戯画的な解釈をすることが評価されているとも言うが、それは、そもそも伝統的な演劇作法について教育を受けていないか、または学習の機会が限定される中でテキストの解釈が表層的だから、そのような演出しかできないのではないか。
もちろん、伝統的な演劇をみっちりと学んだヨーロッパの演劇人たちは、そんな「へんてこりん」な演出は、よほどの天才でもない限り試みることはない。そういう状況に、演劇の伝統豊かな日本から、「へんてこりん」な演出の舞台がやってきたとしたら、それは確かに大きなサプライズとともに受容されることになる。
ただし、物珍しさが評価の根底にあるのだとしたら、おそらく、そのような評価は長続きしないであろう。また、こうした「へんてこりん」な演出が、今後の日本演劇の潮流となり、新たな伝統となり得るかと言えば、あくまで一時的な流行にしか過ぎないと思われる。
こうした状況だからこそ、舞台芸術に取り組む人たちやそれを目指す人たちは、過去の舞台芸術についてきちんと学ぶことが必要なのである。そして、そうした過去の演劇文化やその作法を身につけたのちは、さまざまなチャレンジを試みればよい。その中から、次の時代へ向けての「新しい伝統」となる作品や演出がきっと生まれてくるはずである。
また、演劇や舞踊のデジタルアーカイブが構築されれば、それはこれらの分野の研究や評論にも寄与すると期待される。なお、上述したような「へんてこりん」な作品がはびこる背景には、日本でまっとうな演劇批評が機能していないという状況があるのではないかと懸念している。デジタルアーカイブを活用し、研究や批評の基盤が整えば、創作と批評の間に、より良い関係が構築さるのではないかと期待したい。
3 社会包摂の可能性
そしてもちろん、オンラインによる動画配信が普及・定着していけば、さまざまな公演の鑑賞における社会包摂の取り組みが進展する可能性がある。
具体的には、公演の映像に日本語字幕や、セリフの合間に場面の視覚的情報を補う音声ガイドをつけることにより、聴覚障碍者や視覚障碍者にとってもバリアフリーの公演鑑賞ができるようになる。また、字幕のテキストデータを翻訳すれば、比較的簡便に多言語化をすることができ、日本語を母語としない人が舞台を楽しむことができる可能性がある。
そして、こうしたバリアフリーの配慮を施した公演の動画を、ぜひ大人と子どもで一緒に見ることを強く勧めたい。おそらく、日本語字幕やセリフの合間の情景説明のナレーションが付加されていることについて、子どもたちは「なんで、僕(私)でもわかるようなことを、わざわざ説明しているの」と、最初はとまどうのではないか。その時、一緒に見ている大人は、「こういう情報を必要としている人が、君の周りにいるんだよ」ということをきちんと説明してあげるべきなのだ。
最後に強調しておきたいこととして、このように公演のバリアリーによる動画配信は、社会包摂の教育素材にもなり得るという点である。
*本稿は、2020年5月8日(金) 19:00-20:30、にオンラインで開催された、TA-net(特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク)の定例会「芸術文化におけるオンライン動画配信と情報アクセシビリティの可能性を考える」にて、ゲストとして招聘された太下のトーク部分の原稿です。